あれはもう2年前の冬の話。
街はクリスマスムードだけど、そのおっさんは浮かない顔で、最寄り駅から自宅に向かって歩いていた。
年の頃は40歳手前くらい。
仕事着に身を包んだ、どこにでもいる冴えないおっさんだ。
なにか物思いに耽っているのか、どこか上の空で歩いている。
そんなんだから、いつも曲がる道をだいぶ通り過ぎたことに気づかず、しばらく歩いたところで、はたと気がついたようだ。
あれ、いけね。こんなところまで来ちゃった。まあ、でもここを曲がれば家に帰れるか。
おっさんは独りごちると、いつもは通らない路地の方へ曲がった。
何をそんなに考え込んでいたのかと言うと、ピアノのことだ。
このおっさんは、まだまだ腕は拙いが、一応ピアノ弾きである。
いや、"趣味でピアノを弾いている"というのが正しい表現だ。
しかし、そこはおっさんなりの矜持というか、ちっぽけなプライドがあって、自分のことをピアノ弾きだと思っている。
もちろん、ピアノに関する輝かしい経歴なんてひとつもない。
型通りに小学生のときにピアノを習ってみたが、まったくと言っていいほど練習しなかった。
先生も半ば諦めながら「あなたは何しにここに来てるの?」と嘆いていた。
そのまま途中で挫折し、月日は流れ、おっさんは大学生になった。
女の子にモテたいという、恥ずかしいくらい浅ましい理由で、軽音学サークルに入ろうと目論んだが、勧誘に来たのはヴィジュアル系な見た目のニイちゃん。
明らかに挙動不審な男に、V系ニイちゃんは言った。
「君、なんか楽器弾けるの?」
はい!ピアノを少々…
「あ、ふーん、…で、ギターは弾けないの?」
こうして、軟弱なハートは脆くも打ち砕かれ、そのあと勧誘にきた優しそうなお兄さんに誘われて、軟弱式…失礼、軟式野球サークルに入部したのであった。
しかし、モテたい欲を諦めきれず、楽器禁止のアパートに電子ピアノを置いて、独学で猛練習した。
よい子は絶対に真似しないこと。周りの部屋の人たちにこの場を借りて謝罪したい…。本当にごめんなさい。
基礎なんてないに等しいから、まあめちゃくちゃだった…。
でも、今まで生きてきてこんなに夢中になったことはなかった。
朝起きて、大学の講義をサボってピアノを弾いて、酒を飲んで寝て、また起きてピアノを弾いていた。
そしてサボりすぎて留年した。
客観的にみると、本当にただのバカだな…。
なんであんなに夢中になれたのか?
あの頃は無知すぎて、自分に音楽の才能があると、本気で思い込んでいた。
勘違いして、講義中に曲のコード進行をノートに書き写したりして、「俺、音楽できます!」アピールをしていた。
恥ずかしすぎて、深さ10mくらいの大穴を掘ってダイブしたい。
大学ではそのあと、仲間に恵まれてサークルではないけどバンドを組んだり、学祭で音楽喫茶に出演したりと、何とか巻き返して青春できた。
ただ、残念ながら全くモテなかった。
大学で得た学びは、音楽をするからモテるのではなく、モテる人が音楽をやるからカッコいいということだ。
これから大学に進学する諸氏は、卒業試験に出題されるので、是非メモっておいて欲しい。
卒業と就職を機に、多忙だったのもありピアノには一切触れなくなった。
あの頃使っていた、学生には贅沢すぎる電子ピアノも、引っ越しの時に手放した。
10年くらい経って、仕事に少し余裕ができたときに、ふと思った。
最近何にも夢中になってないな…。このまま人生終わっていくのかな…。
子供が少し大きくなったのを機に(言い訳に)、もしかしたら興味を持つかもしれないと、安物の電子ピアノを買った。
久しぶりで全然弾けないし、こんなおもちゃみたいなピアノだし、まあ自分は時々弾く程度に…なんて考えは甘かった。
そこからまた、寝ても醒めてもピアノのことを考える日々が始まった。
時間さえあれば、ヘッドホンをつけてピアノを弾いていた。
初めは特に気にしていなかった妻も、その狂気じみた姿に徐々にドン引きしていった。
今回はちゃんと先生にも習うことにした。(詳しい話はまたいつか書こう。)
そしてこれが(多分悪い方向で)人生の転機になった。
驚いたことに、今まで経験したことのない早さで、ピアノの腕が上達したのだ。
正直、人生も折り返し地点に入り、ここからは下り坂なのだと思っていたアラフォーおっさんにとって、まだ自分がなにかで成長するという事実が、たまらなく嬉しかった。
そして、こうなったらおっさんの狂気は留まるところを知らなかった。
そしておっさんは次第にあるものに心を奪われるようになった。
アコースティックピアノが欲しい。
そしてアコースティックピアノを、誰にも気兼ねせず思いっきり弾ける環境が欲しい。
きっかけはピアノの先生の一言だった。
「ピアノって、タッチの仕方で音が変わるんです。そこを使い分けられると、もっといい演奏になります。電子ピアノだとちょっと難しいかもしれませんが…。」
想定外に上達したせいで、おっさんは大きな壁に突き当たっていた。
電子ピアノでの練習では、さらなる上達が難しくなってきたのだ。
それ以来、おっさんは寝ても醒めてもアコースティックピアノのことを考えるようになった。
アップライトピアノでいいから、自由に弾ける環境が欲しい。
でも今住んでいるマンションにピアノなんか置けないし、置いたとしても近隣への騒音や家族の目が気になって、ろくに弾けやしない。
レンタルスタジオも利用してみたが、予約もいるし、思い立ったときに弾きに行けるわけではない。
ああ、自分のピアノさえ手に入れば、もっとピアノが上手くなれるのに…。
ああ、自分のピアノさえ手に入れば、毎日が楽しくて幸せになれるのに…。
スマホの検索履歴はピアノで溢れていた。
アラフォーのおっさんが、まるで恋煩いのように、毎日スマホを見ながらため息をつくさまは、傍目からみたらなかなかグロテスクな光景ではないだろうか。
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ずいぶんと長いあいだ、考え事をしていたようだ。
ふと我に返ると、またしても自分の家とは違う方向に歩いていた。
今日はどうかしてるな…。
寒くなってきたし、一刻も早く家に帰りたいところだが、全く見覚えのない道だ。
家の近くであることは間違いないのだが…。
えっと、どっちに行けばいいんだろう?
あたりを見回すと少し先に古びた店の看板がある。
レトロな喫茶店のような看板にこう書かれている。
「Piano Bar 音呼」
ピアノ…バー…?こんなところに?
早く帰らなければいけない。それはわかっていたけど、このタイミングでピアノバーとは…
何か運命めいたものを感じたのか、おっさんは吸い寄せられるように店の扉に手をかけていた。
※この物語は半分以上フィクションです。